これより、後白河法皇を中興第一世と仰ぎ、昌雲、実全を経て第四世尊性法親王(後高倉天皇の皇子)が入り、現在の建仁寺北辺一帯に寺域を構えて「綾小路宮」と号した。
その後、1227年に尊性法親王は天台座主に上任、後醍醐天皇の皇子尊澄法親王が門主となり、天台座主に任ぜられた。妙法院は、青蓮院(京都市東山区粟田口)、三千院(京都市左京区大原)とともに宮門跡寺院である。その後、応仁の乱の兵火を受けるが、1614年より現在の地に移り、大仏方広寺、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社を管領した。
また幕末1863年8月18日、公武合体派に敗れた尊攘派の三条実美を始めとする勤王の七卿は、この宸殿に会し、明治維新の契機となる「七卿落ち」の密議をこらした。
飛び地境内になる蓮華王院(三十三間堂)は、一千一躰の千手観音をはじめ、風神、雷神、二十八部衆など千数十躰にのぼる諸尊を奉安する日本唯一の千躰観音堂として有名。 |