新日吉神宮の御朱印
御朱印

京都の神社・仏閣
新日吉(いまひえ)神宮
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住所/〒605-0932 京都市東山区妙法院前側町451-1
TEL/075−561−3769
アクセス
★電車/JR京都線「京都」駅から市バス「東山七条」下車 徒歩約5分
    京阪「七条」駅より徒歩約15分
    JR京都線「京都」駅より徒歩約30分
    JR京都線「京都」駅八条口、京阪「七条」駅から
      プリンセスラインバス「京都女子中高前」下車すぐ
★車/名神「京都東」ICあるいは「京都南」ICより約15分
駐車場/なし
拝観料/無料  境内自由

鳥居
鳥居
楼門
楼門

御祭神は、本殿に後白河天皇、大山咋命(おおやまくいのみこと)妃神賀茂玉依姫命(ひのかみかものたまよりひめのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)田心比売命(たごりひめのみこと)菊理比売命(くくりひめのみこと)大山昨命(おおやまくいのみこと)荒御魂(あらみたま)賀茂玉依姫命(かものたまよりひめのみこと)荒御魂(あらみたま)の八座、相殿に大山咋命(おおやまくいのみこと)祖父神素戔嗚尊(すさのおのみこと)、同父神大年神(おおとしのかみ)の二座を祀る。()

拝殿
拝殿
楼門
楼門

創立は、後白河天皇が1158年に上皇となると、院の御所を法住寺に定め、その法住寺内に皇居の守護神山王七社の神々を比叡山東坂本の日吉大社から迎え祀った。1160年10月16日のことである。当時、法住寺は天台宗三井園城寺(寺門派)に属していたので、新日吉社を護る別当として、比叡山延暦寺(山門派)の妙法院を四条の南、祇園社の西に移した。また創立当初の社地は東山瓦坂(日吉坂)の東の今比叡山西麓で、別に年次を定めて社殿を建てかえる社地が設けられ、更に諸国に多くの社領地が定められた。武蔵の国(埼玉県)川越の荘もその一つで、1457年にこの地から江戸に出て千代田城を築いた太田資長(道灌)は新日吉社の川越の分霊社を城内に遷し祀ったが、これが今の東京都の日枝(ひえ)(山王)神社である。()

本殿
本殿
拝殿
拝殿

後白河上皇が今比叡の地に造営した当時は壮麗を極めていたが、室町時代中頃の応仁・文明の役などの度重なる戦火に見舞われ、更に戦国の世の乱れに伴って、諸国数十ヶ所に及んでいた社領地も次第におかされ、社殿その他の建造物も破損して、室町時代末には衰退した。()

社号碑
社号碑
狛猿
狛猿
狛猿
狛猿

桃山時代になると、豊臣秀吉は法住寺内に方広寺大仏殿を造営し、後白河上皇以来の蓮華王院(れんげおういん)(三十三(げん)堂)(鎌倉時代再建)も大仏境内に含め、新日吉社の南北両社地の中間には祥雲寺などを創立したので、法住寺は後白河天皇御陵を中心とする小寺域となった。そして1598年に秀吉が死没すると、豊臣氏は新日吉社の北社地に豊国社を造営、更にその東の油ガ峰に秀吉の墓所を営んだ。()

拝殿
拝殿
山口稲荷社
山口稲荷社

1615年に徳川氏が豊国廟社を廃止すると、後水尾天皇は妙法院宮堯然親王に新日吉社を北社地に造営遷座することを勅命し、ここに神社は豊国廟を背後に、日吉馬場を正面参道として、往時をしのぶ盛観を仰ぐようになった。この時、豊国社の神体が新日吉社の神殿にひそかに遷し祀られた。かくて1655年には神社の造営も完成し、妙法院門跡も日吉馬場の北の現在地に移り、祥雲寺などの址は智積院に改められ、法住寺を始め方広寺なども延暦寺派と変わり、蓮華王院(れんげおういん)(三十三(げん)堂)も妙法院によって守護されることとなった。ところが1897年(明治30年)に豊臣氏ゆかりの旧大名家が豊国廟の復興をはかり、秀吉の墓所をもとの位置より東の阿弥陀ガ峰頂上に移し、新日吉神社をやや南西方の現地に移転させ、更に日吉馬場の一部をも豊国廟参道にあてた。()

本殿
本殿
京都市指定保存樹「スダジィ」
京都市指定保存樹「スダジィ」
社号碑
社号碑

そして1958年(昭和33年)10月16日に法住寺御陵より後白河天皇を合祀し、翌年10月16日には御鎮座800年大祭が盛大に行われ、11月11日に天皇奉祀神社としての神宮号が公許された。()

鳥居神額
鳥居神額
(左)豊国(右)愛宕社・秋葉社
(左)豊国(右)愛宕社・秋葉社
鳥居神額
鳥居神額

(上)豊国社 旧豊国廟社が取り壊されたとき、豊公の神体を新日吉社に遷したが、1785年に改めて境内社樹下社(このもとのやしろ)を造営して、豊公のための社殿とした。()

飛梅天満宮飛梅天満宮 鳥居神額鳥居神額

(上)飛梅天満宮 後白河天皇が菅公遺愛の飛梅の霊を菅公の神霊と共に祀ったところで、洛陽天満宮二十五社第2番拝所。()




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