清水寺の御朱印
西国三十三所(本堂) 御朱印

西国三十三所(本堂)
法然上人二十五霊場(阿弥陀堂) 御朱印

法然上人二十五霊場
(阿弥陀堂)
洛陽三十三所(善光寺堂) 御朱印

洛陽三十三所(善光寺堂)
洛陽三十三所(奥の院) 御朱印

洛陽三十三所(奥の院)
洛陽三十三所(本堂) 御朱印

洛陽三十三所(本堂)
洛陽三十三所(朝倉堂) 御朱印

洛陽三十三所(朝倉堂)
洛陽三十三所(泰産寺) 御朱印

洛陽三十三所(泰産寺)

京都の神社・仏閣
清水寺
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住所/〒605-0862 京都市東山区清水1-294
TEL/075−551−1234
アクセス
★電車/JR京都線「京都」駅から
       市バス「清水道」あるいは「五条坂」より徒歩約10分
       あるいは京都バス「東山五条」より 徒歩約10分
    京阪「清水五条」駅より徒歩約25分
★車/名神「京都南」ICあるいは「京都東」ICより約15分
駐車場/なし
拝観料/300円
拝観時間/6:00〜18:00(夜の特別拝観中は17:30まで)

(左)仁王門(右)西門(奥)三重塔
(左)仁王門(右)西門(奥)三重塔
本堂と舞台
本堂と舞台

音羽山清水寺は、奈良時代末、778年の開創。開山は延鎮上人(えんちんしょうにん)
その2年後の780年には、この地に鹿狩りにきた坂上田村麻呂が修行中の延鎮上人(えんちんしょうにん)に殺生を戒められ、夫人とともに千手観音を造り、お堂を建てた。810年には鎮護国家の道場となった。()

(左)西門、三重塔と枝垂桜
(左)西門、三重塔と枝垂桜
枝垂桜と(右)仁王門
枝垂桜と(右)仁王門

北法相宗(きたほっそうしゅう)、単立の一寺一宗。法相宗は、中国・唐の玄奘三蔵の弟子・慈恩大師が開宗した。
奈良時代に唐に留学した奈良・元興寺の道昭が日本に初伝来し(南寺の伝)、さらに興福寺の玄ムも伝来した(北寺の伝)。清水寺は、開創以来、興福寺の北伝の法相宗であったが、1965年「北法相宗」として独立した。「北」は、北寺の伝を意味するとともに、南都・奈良に対して北の京都に立地するという意味がある。
神仏霊場京都37番。1994年、UNESCOの世界遺産に登録される。
春の桜、秋の紅葉が有名。春、秋ともに夜の特別拝観がある。(拝観料/400円)()

三重塔
三重塔
舞台から京都タワーを望む
舞台から京都タワーを望む

本堂と舞台
本堂と舞台
出世大黒天像
出世大黒天像

(上下)本堂 西国三十三所観音霊場第十六番札所、洛陽三十三所観音霊場第十二番札所。
本堂と舞台は江戸時代初期のもので国宝。『清水の舞台から飛ぶ』ということわざがあるが、この舞台から、思い切って飛び下りるという意味から、死んだつもりで思い切ったことをする、あるいは非常に重大な決意を固めることを言う。()

本堂
本堂
本堂
本堂

仁王門
仁王門
随求堂
随求堂

(左上)仁王門(重要文化財) 応仁の乱により焼失したが、15世紀末に再建され、2003年(平成15年)に解体修理された。清水寺の正門で、室町時代再建当時の特徴を示す楼門。入母屋造り、檜皮葺、鮮やかな丹塗りのため「赤門」とも呼ばれている。
(右上)随求堂(ずいぐどう) 塔頭慈心院の本堂。本尊は、衆生の願い・求めにすぐに随って、すべて叶えてくれるという大随求菩薩で、大悲のお母さん仏である。
『胎内めぐり』(拝観料/100円)真っ暗闇の中、大随求菩薩の胎内を進むと、この悲母菩薩を象徴する梵字(ハラ)を印した随求石が浮かび上がり、その石を廻して深く祈れば叶うという。()

北総門
北総門
轟門
轟門

(左上)北総門(重要文化財) 1631〜39年に再建された薬医門。屋根は切妻造り、本瓦葺。かつては成就院の正門として使われていた。2010年(平成22年)に全面的に解体修復工事が行われた。
(右上)轟門(重要文化財) 1631〜33年に再建された三間一戸の八脚門。切妻造り、本瓦葺で、妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小し写している。()

(左)三重塔(右)経堂
(左)三重塔(右)経堂
開山堂
開山堂

(左上)三重塔(重要文化財) 本尊観世音菩薩の霊験により嵯峨天皇の皇子が誕生したとして、847年に葛井(かどい)親王の勅命で創建され、1632年に再建された。現在の塔は1987年に解体修理、彩色復元されたもの。三重塔としては日本最大級で高さ約31mもある。
(右上)開山堂(重要文化財) 田村堂ともいい、清水寺創建の大本願・坂上田村麻呂公夫妻の像を堂内中央、須弥壇(しゅみだん)上の厨子(ずし)(重要文化財)内に祀っている。併せて清水寺開基の行叡居士(ぎょうえいこじ)と開山の延鎮上人(えんちんしょうにん)を奉祀している。三間四方、入母屋造り、檜皮葺。現在の建物は1633年の再建で、2006年(平成18年)に修復されたもの。()

釈迦堂
釈迦堂
阿弥陀堂
阿弥陀堂

(左上)釈迦堂(重要文化財) 寄棟造り、檜皮葺の、一見簡素な造りのお堂。1972年豪雨で倒壊したが、その3年後に1631年再建時の姿に復旧された。
(右上)阿弥陀堂(重要文化財) 法然上人二十五霊場第十三番札所。1996年に彩色復元された。お堂は1631〜33年の再建。浄土宗の開祖・法然上人が、日本で最初に常行念仏道場とした場所といわれている。()

奥の院
奥の院
鐘楼
鐘楼

(左上)奥の院(重要文化財) 洛陽三十三所観音霊場第十一番札所。清水寺の起こりとなった「音羽の瀧」の真上に建ち、開基行叡居士(ぎょうえいこじ)と、開山延鎮上人(えんちんしょうにん)が修行した旧草庵跡と伝えられている。現在の建物は、本堂と同時期の1633年に再建された。
(右上)鐘楼(重要文化財) 1607年の再建で、1999年に彩色復元されたもの。梵鐘は2008年奉納された五代目。四代目の梵鐘(重要文化財)は、応仁の乱後に復興した願阿上人(がんあしょうにん)の大勧進活動によって1478年に奉納されたもので、現在は宝蔵殿に納められている。()

音羽の瀧
音羽の瀧
舞台からの音羽の瀧
舞台からの音羽の瀧

(上)音羽の瀧(おとわのたき) 古来より音羽山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、わが国十大名水の筆頭にあげられる。「清水寺」の名はここからきている。三筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、六根清浄、所願成就を祈願するため、連日、行列ができるほどの人気の場所だが、元は瀧行の場である。()

善光寺堂
善光寺堂
馬駐
馬駐

(左上)善光寺堂 山門前に建つ洛陽三十三所観音霊場第十番札所。もとは地蔵菩薩を本尊とする「地蔵院」だったが、いつ頃からか如意輪観音を中尊とし、明治の中頃に、奥の院南庭にあった善光寺如来堂(長野善光寺の本尊を勧請)を合併して、善光寺堂となった。
(右上)馬駐(うまとどめ)(重要文化財) かつて貴族や武士が此処に馬をつないで、徒歩で諸堂を参拝した。現在の建物は応仁の乱後に再建されたもの。2010年に解体全面修復された。()

阿弖流爲・母禮之碑
阿弖流爲・母禮之碑
子安塔
子安塔

(左上)阿弖流爲(アテルイ)母禮(モレ)之碑 この碑は1994年11月に平安建都1200年を機に建てられた。東北の地図の形の中に清水寺森清範貫主の筆で刻まれている。「阿弖流爲」はアテルイ、「母禮」はモレと読み、ともに古代東北の族長である。
約1200年前、桓武朝の二大政策の一つに東北経営の建て直しがあった。(もう一つは言うまでもなく天武系皇統の宮都であった平城京を棄て、あらたに天智系皇統の宮都を造ることである。)そこで、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され蝦夷征伐が行なわれた。東北には、これまで幾度か出兵があり、その度、失敗に終わっていたのが、このときは阿弖流爲(アテルイ)母禮(モレ)らが一族500余人を率いて田村麻呂のもとに投降してきた。田村麻呂はこの二名の助命を嘆願して郷里に戻し、彼らを通して一類の帰服を促すことを考え、二人を伴って上京した。これは阿弖流爲(アテルイ)を信頼するに足る人物と見たからである。しかし公卿たちは、彼らを奥地に放還するのは将来に禍根を残すものだとして是認せず、河内杜山で二人の首をはねてしまう。杜山とは現在の大阪府枚方市で、同市の片埜(かたの)神社のかたわらにある土まんじゅうが、俗に阿弖流爲(アテルイ)の首塚と伝えられてきた。
阿弖流爲(アテルイ)母禮(モレ)の郷里胆沢(いさわ)の人達をはじめとする東北の人びとは田村麻呂の裏切りと憤慨していたであろうが、この碑の建立で、歴史的わだかまりが解消され和解したであろうと評判になった。そばには胆沢(いさわ)のシダレザクラが植えられている。()

円山公園のしだれ桜 円山公園のしだれ桜





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