瑞泉寺の御朱印
御朱印

京都の神社・仏閣
瑞泉寺(ずいせんじ)
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住所/〒604-8002 京都市中京区木屋町通り三条下ル石屋町114-1
TEL/075−221−5741
アクセス
★電車/地下鉄「京都市役所前」駅または「三条京阪」駅下車 徒歩約8分
    京阪本線「三条」駅下車 徒歩約5分
    阪急京都線「河原町」駅より徒歩で約10分
駐車場/なし
拝観料/無料
拝観時間/7:00〜17:00

山門
山門
本堂
本堂

浄土宗西山禅林寺派。山号は慈舟山(じしゅうざん)
1611年、角倉了以(すみのくらりょうい)が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立。開山は立空桂叔和尚。
寺名は京極誓願寺の中興教山上人が秀次公に贈った法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」に由来し、山号は高瀬川を往来する船「高瀬舟」に因んだとされる。()

地蔵堂
地蔵堂
庫裡
庫裡

秀次は豊臣秀吉の養子となって関白の位と豊臣家の家督を継ぐが、秀吉の側室淀君に秀頼が誕生したことから秀吉には次第に疎んぜられ、さらには石田三成らの策謀もあり、ついに1595年7月、謀反の疑いを理由に高野山へ追放され、同月15日に高野山青厳寺(現在の金剛峯寺)において切腹させられてしまう。
次いで同年8月2日、秀次の子供と側室などの女性一族39人が、三条大橋西南の当時はまだ鴨川の河原であった此の地で無惨にも公開処刑され、遺骸はその場に掘られた大きな穴にひとつに投げ込まれた。そして、その上に世に「殺生塚」(摂政関白の塚より転意)と呼ばれる大きな塚が築かれ、その存在は当時の「洛中洛外図」にも印象深く描かれることとなる。()

墓碑
墓碑
秀次及び一族の墓所
秀次及び一族の墓所
墓所案内板
墓所案内板

それから16年後、秀吉の十三回忌を前にして大仏殿方広寺の再建が決まり、その建築資材を運搬するための安定した水運が必要となり、高瀬川の開削と木屋町筋の整備を開始した豪商角倉了以(すみのくらりょうい)は、洪水などで荒廃したその塚を拝み、縁浅からぬ豊臣秀次一族を弔うための墓地と一寺を此の地に建立した。()



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