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祇園祭は八坂神社の祭礼で、大阪・大阪天満宮の天神祭、東京・神田明神の神田祭とともに、日本三大祭のひとつに挙げられており、その歴史の長いこと、またその豪華さ、祭事が1ヶ月にもわたる大規模なものであることが広く知られている。
一般には、17日(前祭(さきまつり)・山鉾巡行と神幸祭(しんこうさい))と24日(後祭(あとまつり)・山鉾巡行と還幸祭(かんこうさい))、そしてその宵山(よいやま)がよく知られているが、毎年7月1日(吉符入(きっぷいり))から31日((えき)神社夏越祭(なごしさい))まで、7月の1ヶ月にわたる。()

八坂神社西楼門
八坂神社西楼門
本殿
本殿

今からおよそ1100年前の清和天皇869年(貞観11年)に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出た。これは、牛頭天王(ごずてんのう、神仏分離以後は素盞鳴尊(すさのおのみこと)といわれている。)のたたりであるとし、そのご機嫌をとるため神をまつり、祇園社(八坂神社の前身で、ご祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと))を信仰し、病魔退散を祈願したという。
その方法は、日本全国の国の数に準じて66本の鉾をつくらせ、それを神泉苑(中京区御池通大宮)におくり、悪疫を封じ込む御霊会をおこなったのがはじまりであると伝えられている。その後、祇園社の興隆とともに、"祇園御霊会"とよばれ、この名が略されて単に祇園会とよばれるようになった。
はじめのころは、疫病流行の時だけ不定期に行われたが、円融天皇の970年(天禄元年)からは、毎年6月14日におこなわれるようになった。その間、保元・平治の乱に一時絶え、足利時代に再興、足利将軍、夫人らが観覧したことが記録にのこっている。()

舞殿
舞殿
三基の神輿
三基の神輿

占出山 会所
占出山 会所
役行者山 会所飾り
役行者山 会所飾り

しかし、応仁・文明の乱に京都は焼野原と化して折角の祇園会の興隆に一頓挫をきたしたが、すでに町衆の手に支配されていた祇園会に対する熱情は容易に屈せず、大乱の約30年程のち、1500年(明応9年)6月には再び山鉾26基が巡行したと伝えられている。そしてこれが契機となり、山鉾は町衆の手によって創意がこらされ、内容外観ともに豪華、絢爛なものとなった。
1504年(永正元年)6月には後柏原天皇もこの祇園会を観覧しているが、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、1533年(天文2年)一向一揆に際して室町幕府は神事停止を命じたが、"神事無之共、山鉾渡し度し"と申し出るほど町衆の山鉾存続への熱意が高まっていった。()

船鉾
船鉾
船鉾、北観音山など
船鉾北観音山など

鉾が今のような形になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易がおこり、町衆階級が勃興して舶来のゴブラン織や西陣織などが競って用いられるようになってからである。
また山鉾行事は、1979年(昭和54年)文化財保護法により、国の重要無形民俗文化財に指定されたほか、2009年(平成21年)には国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。()

円山公園 祇園祭山鉾館
円山公園 祇園祭山鉾館

長刀鉾
長刀鉾
函谷鉾
函谷鉾
船鉾
船鉾

(上)宵山(よいやま) 前祭(さきまつり)は14〜16日、後祭(あとまつり)では21〜23日に各山鉾町で山鉾を飾り、駒形提灯に灯が入り、祇園囃子を奏で、各家においても家宝、屏風等を美しく飾る(屏風祭)。()

屏風祭 醍醐正四季咲(緑芽繁生圖屏風)
屏風祭 醍醐正四季咲(緑芽繁生圖屏風)
木賊山 会所飾り
木賊山 会所飾り
長刀鉾
長刀鉾
長刀鉾
長刀鉾

(上)山鉾巡行 前祭(さきまつり)長刀鉾を先頭に23基の山鉾が各町を出て、四条烏丸に集結し、四条通を東へ進み四条河原町から河原町通を北進、河原町御池で御池通を西へ進み、新町通を通って自分の町へ帰っていく。後祭(あとまつり)では10基の山鉾が各町を出て、烏丸御池に集結し、前祭(さきまつり)の反対に御池通を東へ進み河原町御池から河原町通を南進、四条河原町で四条通を西へ進み、四条烏丸へ向かう。()

鶏鉾
鶏鉾
月鉾
月鉾

(上)辻廻し 山鉾自体には方向を変えるための舵がないので、車輪の下に割り竹や棒を敷き、水をかけ、横から引っ張って車輪を滑らせ方向転換する。囃子方、音頭取り、曳き手のタイミングを合わせて行われる迫力ある辻廻しは巡行の見せ場の一つである。()

御朱印帳
御朱印帳