義仲寺の御朱印と参拝記念印
御朱印

滋賀の神社・仏閣
義仲寺(ぎちゅうじ)
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住所/〒520-0802 大津市馬場1-5-12
TEL/077−523−2811
アクセス
★電車/JR琵琶湖線「膳所」駅下車 徒歩約10分
     京阪電鉄石山坂本線「京阪膳所」駅下車 徒歩約10分
★車/名神「大津」ICから約5分
駐車場/なし
拝観料/300円
拝観時間/3月〜10月 9:00〜17:00
       11月〜2月 9:00〜16:00
         月曜日定休(祝日除く)

山門と巴地蔵堂
山門と巴地蔵堂
翁堂
翁堂

天台宗系単立寺院。朝日将軍木曽義仲公御墓所、芭蕉翁御墓所。
1180年、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、1183年5月、北陸路で平氏の大軍を討ち破り7月京都に入る。しかし翌年、鎌倉の源頼朝の命を受けた源範頼、義経の軍勢と戦い、この地で討ち死にした。享年31歳。
その後、年あって見目麗しい尼僧が、この公の御墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみであったが、この尼こそ義仲公の側室巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は「無名庵(むみょうあん)」ととなえられ、あるいは巴寺、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれていたことが、鎌倉時代後期弘安ごろの文書にみられる。()

義仲公墓(木曽塚)
義仲公墓(木曽塚)
巴塚
巴塚

戦国時代には、荒廃していた当寺を近江国守佐々木侯が再建した。そのころは石山寺に、近世は三井寺に属した。1769年に蝶夢(ちょうむ)法師の中興、しかし1856年の火災、1896年(明治29年)の琵琶湖大洪水、大東亜戦争を経て戦後、寺内全建造物の荒廃、壊滅に瀕した。
その後、1965年(昭和40年)三井寺円満院より買い取り、宗教法人法による単立寺院として、寺域を整頓、朝日堂、無名庵(むみょうあん)の改築、翁堂(おきなどう)の修復がなされ、同年の時雨忌(しぐれき)に昭和再建落慶の法要が行われた。
1967年(昭和42年)11月に境内全域が文部省より国の史跡に指定された。()

芭蕉桃青句碑
芭蕉桃青句碑
芭蕉翁句碑
芭蕉翁句碑
芭蕉翁句碑
芭蕉翁句碑

芭蕉翁が当所を訪れたのは1685年3月中旬、その後も幾度も来訪、滞在した。1691年春に無名庵(むみょうあん)の新庵落成。伊勢の俳人又玄(ゆうげん)の有名な句「木曽殿と脊中合わせの寒さかな」は、同年9月13日頃、又玄(ゆうげん)無名庵(むみょうあん)に滞在中の翁を訪ね泊まったときの作。
芭蕉翁は1694年10月12日大坂の旅舎で亡くなる。享年51歳。遺言に従って遺骸は義仲寺(ぎちゅうじ)に葬られた。忌日は「時雨忌(しぐれき)」といい、当寺の年中行事で、旧暦の気節に合わせて、毎年11月の第二土曜日に営まれる。
(左上)芭蕉桃青句碑 行春(ゆくはる)あふミ(おうみ)の人とおしみける
(真中上)芭蕉翁句碑 古池や蛙飛(かわずとび)こむ水の音
(右上)芭蕉翁句碑 旅に(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ(めぐ)()

朝日堂
朝日堂
朝日堂扁額
朝日堂扁額

(上)朝日堂 義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸(じょうそう)諸位ほか合わせて三十一柱の位牌を安置する。()

翁堂
翁堂
木曽八幡社
木曽八幡社

(上下)翁堂(おきなどう) 正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士(じょうそうこじ)去来(きょらい)先生の木像、側面に蝶夢(ちょうむ)法師陶像を安置する。正面壁上に「正風宗師(しょうふうそうし)」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天上の絵は、伊藤若冲(じゃくちゅう)筆四季花卉(かき)の図である。()

翁堂
翁堂
天井絵「四季花卉図」
天井絵「四季花卉図」
三浦義一翁歌碑
三浦義一翁歌碑



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