城南宮の御朱印
御朱印 御朱印

京都の神社・仏閣
城南宮
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住所/〒612-8459 京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
TEL/075−623−0846
アクセス
★電車/地下鉄または近鉄「竹田」駅から徒歩約15分
       または市バス「城南宮東口」下車 徒歩約8分
     阪急「大宮」駅より市バス「城南宮道」下車 徒歩約5分
     京阪「中書島」駅より市バス「城南宮」下車 徒歩約3分
★車/名神「京都南」ICから約5分
駐車場/約200台(無料)
境内参拝自由  神苑拝観料/500円
拝観時間/9:00〜16:30

西鳥居
西鳥居
城南鳥居
城南鳥居

794年の平安京遷都に際し、国常立尊(くにとこたちのみこと)八千矛神(やちほこのかみ)大国主命(おおくにぬしのみこと))と息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう))を合祀し、都の守護神とした。神仏霊場京都3番。()

本殿
本殿
拝殿
拝殿

平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇によって、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点となると、城南宮は離宮の鎮守として一層崇められ、9月の城南祭では神輿行列に加え、流鏑馬(やぶさめ)競馬(くらべうま)も行われ大いに賑わった。1221年(承久3年)後鳥羽上皇は朝権を回復すべく城南流鏑馬(やぶさめ)の武者揃えと称して兵を募り、鎌倉幕府との間に承久の乱が起こったのは有名である。
江戸時代以来は城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、餅祭りとも称され大いに賑う。()

神輿庫
神輿庫
絵馬舎
絵馬舎
松神輿
松神輿
竹神輿
竹神輿
梅神輿
梅神輿

交通安全祈祷殿
交通安全祈祷殿
「熊野詣出立の地」説明板
「熊野詣出立の地」説明板

また当時は、紀州の熊野三山に参詣することが一大ブームになり、出立の前にはここで道中の無事を祈り旅立った。特に白河上皇や鳥羽上皇は熊野詣の精進所として城南離宮をしばしば選んだ。
今日、方除(ほうよけ)の大社として篤く信仰され、普請・造作・転宅・旅行・交通安全など、たくさんの参詣者で賑わっている。()

菊水若水(手水舎)
菊水若水(手水舎)
祓神楽
祓神楽

(左上)菊水(きくすい)若水(わかみず) 伏見の名水の一つ。
江戸時代半ばの随筆に「城南宮の菊水若水を飲むとあらゆる病が治るというので毎日参詣人が絶えない。霊元法皇の歯痛も治った。」とあるように病気平癒の霊験あらたかで、お百度を踏んで水を持ち帰り病人に授ける習慣があった。
また奈良のお水取りの水は、若狭の国からこの菊水若水の井を経て、二月堂の若狭井に達しているとも伝えられる。()

初詣
初詣
初詣
初詣

拝殿
拝殿
本殿
本殿

鳥羽伏見の戦い跡 明治維新を決定づける戊辰(ぼしん)戦争の発端となる。
1867年12月9日の王政復古の大号令で幕府は廃され、前将軍徳川慶喜は12日に京都の二条城から大坂に退いた。しかし、新政府側の薩摩藩の行為に憤激し、1868年正月2日、旧幕府兵および会津・桑名両藩の兵からなる大軍が大坂から京に向かった。
これに対し朝廷では、薩摩、長州、土佐等の諸藩の兵を鳥羽と伏見に繰り出し、鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る参道に、伏見では御香宮神社付近に陣を構えた。翌3日、都を目指した鳥羽街道を北上する旧幕府軍は、ここ城南宮から500mの地点に達し、入京を阻止する薩摩藩と長時間対峙した。夕闇が迫り強行突破の構えを見せるや、城南宮の参道に置かれた薩摩軍の大砲が轟き、続いて伏見でも両軍が衝突、激戦となった。
4日も下鳥羽から伏見にかけて戦闘が続いたが、仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を奉じて御所を出陣との報が伝わり、官軍となった新政府軍の士気は大いに高まった。5日、錦の御旗は鳥羽街道を南に進み、旧幕府軍は淀、八幡へ退却、新政府軍の勝利が決定的となった。()

東鳥居
東鳥居
境内神社:三照宮社
境内神社:三照宮社
境内神社:芹川神社(唐渡天満宮)
境内神社:芹川神社(唐渡天満宮)
境内神社:真幡寸神社
境内神社:真幡寸神社




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