太宰府天満宮の御朱印
御朱印

福岡の神社・仏閣
太宰府天満宮
【太宰府天満宮のサイトへ】

住所/〒818-0117 福岡県太宰府市宰府4丁目7-1
TEL/092−922−8225
アクセス
★電車/西鉄太宰府線「太宰府」駅下車 徒歩約5分
★車/福岡都市高速2号線「水城」ICから約15分
    九州自動車道「太宰府」ICから約15分
    九州自動車道「筑紫野」ICから約20分
駐車場/周辺の有料駐車場利用
拝観料/無料
開門時間/
開門時刻閉門時刻
春分の日より秋分の日の前日まで6:004月・5月・9〜11月19:00
上記以外の日6:306〜8月19:30
 12〜3月18:30
毎週金曜日・土曜日20:30

社号標と石鳥居
社号標と石鳥居
石鳥居
石鳥居

御祭神は菅原道真公。
905年に墓所の上に祀廟が創建され、919年には勅命にて社殿が建立された。()

楼門前の石鳥居
楼門前の石鳥居
楼門
楼門

903年(延喜3年)2月25日、菅公は太宰府の南館(榎社)で亡くなる。その後に遺骸を牛車に乗せて進んだところ、まもなくその牛が伏して動かなくなった。これは菅公の御心によるものであろうとその地に遺骸を葬った。京より追従した門弟味酒安行(うまさけのやすゆき)は905年ここに墓所と神殿を創建、左大臣藤原仲平は勅を奉じて大宰府に下って造営を進め、919年に社殿を建立した。
醍醐天皇は菅公の生前の忠誠を追想し923年(延長元年)にもとの官職に戻した。そして993年(正暦4年)には正一位左大臣、更に太政大臣を贈られ、天満大自在天神(天神さま)と崇められた。その後、何度も勅使の下向があり、朝廷の特別な崇敬をうける「二十二社」に準ぜられた。
1871年(明治4年)国幣小社に、1882年(同15年)には官幣小社、1895年(同28年)には官幣中社に社格が進められた。()

本殿
本殿

御神木飛梅
御神木飛梅
絵馬堂
絵馬堂

菅原家の先祖は、出雲臣の祖神とされた天穂日命(あめのほひのみこと)であり、その14世野見宿禰(のみのすくね)公の子孫で土師(はじ)氏を称していたが、桓武天皇の御代に菅原の姓を名のるようになった。菅公の父は是善公といい、母は大伴氏の出身で、845年(承和12年)乙丑(きのとうし)6月25日に京都の菅原院にて生誕、幼名を「阿呼(あこ)」または「吉祥丸(きっしょうまる)」といわれた。
幼少の頃より学問を好み詩歌にも優れていた。33歳で文章博士となり、42歳で讃岐守として4年間の地方官生活を送り名国司として領民に慕われた。帰京後は宇多天皇の理想政治のもとで信任を受け蔵人頭に任命され、55歳の時には右大臣にまで昇進した。さらに901年、57歳で従二位を授かったが時の左大臣藤原時平の讒言により大宰権師(だざいごんのそち)に左遷された。()

太鼓橋
太鼓橋
御神牛
御神牛

浮殿
浮殿
ひょうたん掛け所
ひょうたん掛け所

2月1日の京都出発に際して紅梅殿の梅に別れを惜しみ、
  東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
     あるじなしとて春な忘れそ
と詠み、その梅が菅公を慕って飛来したのが本殿前の「飛梅」であると伝えられている。
菅公は大宰府へ下向の道すがら、河内国土師の里(藤井寺市)、道明寺の叔母覚寿尼(かくじゅに)に別れを告げ、瀬戸内海の海路を使って九州に至り、3月上旬頃大宰府に着いた。しかし政務の実権はなく、大宰府の配所(榎社)を一歩も門外に出られず、ひたすら謹慎の生活を送った。そのような苦しい配所においても天を恨まず、人を憎まず、国家の繁栄と皇室の安泰を祈り、いつの日か無実の罪が晴れることを願っていたが、903年(延喜3年)2月25日、再び京の地を踏むことなく59歳で亡くなった。()

包丁塚
包丁塚
筆塚・野見宿祢碑
筆塚・野見宿祢碑



HOME TOP BACK LINK