生田神社のご朱印
ご朱印 神戸七福神 ご朱印

神戸七福神

兵庫の神社・仏閣
生田神社
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住所/〒650-0011 神戸市中央区下山手通1丁目2-1
TEL/078−321−3851
アクセス
★電車/阪急、阪神「三宮」駅、JR神戸線「三ノ宮」駅より徒歩約10分
      JR山陽新幹線「新神戸」駅より徒歩約20分
★車/阪神高速神戸線「生田川」ランプあるいは「京橋」ランプより約5分
駐車場/最初の1時間500円、以降100円/10分(約30台)
拝観料/無料
拝観時間/7:00〜日没

拝殿
拝殿

御祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)天照大御神(あまてらすおおみかみ)和魂(にぎみたま)あるいは妹神と伝えられる。
神仏霊場兵庫1番。
日本書紀巻九の神功皇后摂政元年二月の条に記される。
『皇后は忍熊王(おしくまおう)が軍を率いて待ち構えていると聞いて、武内宿彌(たけのうちすくね)に命ぜられ、皇子を抱いて迂回して南海から出て、紀伊水門(みなと)に泊まらせられた。皇后の船は真直に難波に向かった。ところが船は海中でぐるぐる回って進まなかった。そこで武庫(むこ)の港に還って占われた。天照大御神(あまてらすおおみかみ)は「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。廣田国(摂津国廣田(ひろた)神社の地)に置くのが良い」と教えられ、山背根子(やましろのねこ)(むすめ)葉山媛(はやまひめ)に祭らせた。
また稚日女尊(わかひるめのみこと)が教えていわれるのに、「自分は活田長峡国(いくたのながおのくに)(摂津国生田神社の地)に居りたい」と。それで海上五十狭茅(うなかみのいさち)に祭らせた。()

二の鳥居、三の鳥居
二の鳥居、三の鳥居
楼門
楼門

また事代主命(ことしろぬしのみこと)が教えていわれるのに、「自分を長田国(ながたのくに)(摂津国長田神社の地)に祀るように」とのことで、葉山媛(はやまひめ)の妹の長媛に祭らせた。
表筒男(うわづつのを)中筒男(なかづつのを)底筒男(そこづつのを)の三神は「わが和魂を大津の渟名倉(ぬなくら)長峡(ながお)に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる。」と教えられた。そこで神の教えのままに鎮座していただいた。それで平穏に海をわたることができるようになった。』
とあり、稚日女尊(わかひるめのみこと)は神功皇后が三韓征伐に行き、国威を布かれた時に、皇軍を護られた神として記載されている。そして、その凱旋の際、神功皇后によって活田長峡国(いくたのながおのくに)の地に鎮祭された神とされている。()

楼門
楼門
楠の神木
楠の神木

社殿は第二次大戦でも大きな被害を被った。1945年(昭和20年)6月5日の空襲で、本殿以下社殿・施設の大部分が炎上した。
その後復興したものの、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災で、拝殿が倒壊、楼門は半壊、石造物はほとんど全壊となった。現在は鋼管コンクリート柱が採用され、耐震神社として甦っている。()

松尾神社
松尾神社
市杵島神社(生田弁財天)
市杵島神社(生田弁財天)

活田長峡国(いくたのながおのくに)とは、生田川の上手の砂山(いさごやま)であり、現在の地に鎮座したのは、布引(ぬのびき)の渓流の大洪水で砂山(いさごやま)の山麓が崩壊し、神社がきわめて危険にさらされた時、刀根(とね)七太夫なる者が駆けつけ、御神体を背負って自分の家に帰り、庭石の上に御神体を据え置いたが、なお危険があるので、再び背負って現在の地までやって来たとき、一歩も進むことが出来なくなり、ここに鎮座したといわれている。
またここでは、正月には世間に多い「門松(かどまつ)」でなく「杉盛(すぎもり)」をしつらえる。しかも境内には松の木がない。この理由として、砂山(いさごやま)には青松がうっそうとして茂っていたにもかかわらず、洪水の時には何の防護の効果もなかったことが理由で、社地には松を植えるべからずと御託宣があったと伝えられているが、定かではない。()

杉盛
杉盛
杉盛と楼門
杉盛と楼門
杉盛と三の鳥居
杉盛と三の鳥居

蛭子神社
蛭子神社
戸隠神社
戸隠神社

生田裔神(えいしん)八社 生田神社には、氏子区域内に古来生田裔神(えいしん)八社といって、天照大神(あまてらすおおみかみ)素戔嗚尊(すさのをのみこと)と誓約をせられた時に、成りました五男三女神を、それぞれ奉斎している神社が神戸市内に鎮祭せられている。すなわち下記の一宮より八宮までの各神社である。()

一宮神社田心姫命(たぎりひめのみこと)中央区山本通1丁目
二宮神社天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)中央区二宮町3丁目
三宮神社湍津姫命(たぎつひめのみこと)中央区三宮町2丁目
四宮神社市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)中央区中山手通5丁目
五宮神社天穂日命(あめのほひのみこと)兵庫区平野五宮町
六宮神社天津彦根命(あまつひこねのみこと)(八宮神社に合祀せらる)
七宮神社活津彦根命(いくつひこねのみこと)兵庫区七宮町
八宮神社熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)兵庫区楠町3丁目

生田の森
生田の森
生田森坐社
生田森坐社

(上)生田の森 その名が広まったのは源平合戦である。1183年7月、一旦都落ちした平家も、木曽義仲・源頼朝の仲違いの間に乗じ、山陽道・四国等の兵を語らって勢いを盛り返し、同年の終わりごろより讃岐の屋島から海を渡って福原の旧都に居住し、西は一ノ谷(神戸市須磨区)に城郭を構え、東は生田の森を大手の木戸口とし、そこには知盛大将軍、重衡副将軍が陣どり防備を固め東西数里に兵満ちて気勢を示した。翌年2月、源軍発向、その6日、土肥実平一ノ谷の西門より攻め入り、大将源義経は、鵯越(ひよどりごえ)を坂落しに攻め込んだ。平氏の軍一時に敗れ、通盛、忠度、経俊、知章、敦盛、業盛、盛俊、経正、師盛等討死し、重衡は虜となり、宗盛、知盛等は、安徳天皇を奉じて屋島に逃れた。
一ノ谷から生田の森にかけて一帯が戦場となったが、その時、生田神社が兵乱の禍を受けたかどうかの史料や証拠がなく詳かでない。()