誠心院の御朱印
御朱印 御朱印

京都の神社・仏閣
誠心院(せいしんいん)
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住所/〒604-8047 京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487
TEL/075−221−6331
アクセス
★電車/京都市営地下鉄「京都市役所前」駅より徒歩で約10分
    阪急京都線「河原町」駅より徒歩で約8分
    京阪電車「三条」あるいは「祇園四条」駅より徒歩で約10分
    市バス「河原町四条」あるいは「河原町三条」停留場より徒歩約5分
★車/名神「京都南」ICあるいは「京都東」ICより約20〜25分
駐車場/なし
拝観料/無料
拝観時間/7:00〜19:00

本堂
本堂
本堂
本堂

真言宗泉涌寺派。正しくは華獄山(かがくざん)東北寺(とうぼくじ)誠心院(せいしんいん)といい、通称和泉式部(いずみしきぶ)寺と呼ばれる。以前は「じょうしんいん」と言っていた。()

山門
山門
入口の和泉式部縁起絵巻パネル
入口の和泉式部縁起絵巻パネル
和泉式部の墓所(宝篋印塔)
和泉式部の墓所(宝篋印塔)

初代の住職は和泉式部。寺名は和泉式部の法名「誠心院専意法尼」に由来する。
和泉式部は974〜978年の間に生まれたといわれる平安中期の歌人で、中古三十六歌仙の一人に数えられる。父は大江雅致(まさむね)、夫は和泉守の橘道貞で、父の官名と夫の任国とをあわせて「和泉式部」と呼ばれた。冷泉天皇の皇子・為尊(ためたか)親王と恋をするが為尊(ためたか)親王は1002年に死去、その後、弟の敦道(あつみち)親王と恋に落ちるが、彼もまた1007年に早世した。敦道(あつみち)親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』が有名。その後、藤原道長の娘・上東門院彰子(一条天皇の中宮)に女官として仕え、紫式部や赤染衛門と共に宮廷サロンを築いた。今に伝わる歌集としては『和泉式部正集』、『和泉式部続集』などがある。『拾遺和歌集』などの勅撰集に246首の和歌を採られ、『後拾遺和歌集』では最多の歌が選ばれている。百人一首には「あらざらん この世のほかの おもいでに いまひとたびの あうこともがな」、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)の一首に「おおえやま いく野の道の とおければ まだふみも見ず あまのはしだて」がある。()

和泉式部縁起絵巻パネル
和泉式部縁起絵巻パネル ⇒ 誠心院のサイト「和泉式部縁起絵巻」

寺伝では、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)に先立たれた和泉式部は、この世の無常を感じ「女人往生」のすべを求めて書写山圓教寺性空(しょうくう)上人を尋ねた。その後、誓願寺の本尊阿弥陀如来の霊験を教えられ、四十八日の参籠の末、「南無阿弥陀仏」と唱えれば女人の身でも往生できると教えを受け、昼夜の称名を怠らず、身の塵を清め清浄持戒の尼僧となった。1027年に上東門院の願いにより、藤原道長によって和泉式部に与えられた庵が誠心院の起こりとされている。当初、御所の東、荒神口界隈にあったが、鎌倉時代には小川通一条上るに移転し、豊臣秀吉の時に寺町六角下る(現所在地)に移転された。1872年(明治5年)京都府知事の命令で境内に新京極通が通され現在に至る。()



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