總持寺の御朱印
御朱印

神奈川の神社・仏閣
總持寺(そうじじ)
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住所/〒230-8686 横浜市鶴見区鶴見2-1-1
TEL/045−581−6021
アクセス
★電車/JR京浜東北線「鶴見」駅西口より徒歩約7分
    京浜急行線「京急鶴見」駅より徒歩約10分
★車/東京方面より首都高速横羽線「汐入」出口より約15分
   横浜方面より首都高速横羽線「生麦」出口より約10分
駐車場/100台(無料)
参拝時間/境内自由
拝観料/400円(修行僧の説明で諸堂拝観)
  定時拝観 10時、11時、13時、14時、15時(一周約1時間)

総門(三松関)
総門(三松関)
三門
三門

福井県の永平寺とともに、曹洞宗の大本山である。正式には諸嶽山(しょがくさん)總持寺(そうじじ)という。
京浜四大本山巡りの一寺。()

仏殿
仏殿
放光殿
放光殿

縁起によると能登国櫛比庄(くしひのしょう)(現在の石川県輪島市)に行基が開いた諸嶽観音堂があった。1321年、そこの住職である定賢(じょうけん)権律師が霊夢により、その御堂を瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師に譲ったことが始まり。瑩山(けいざん)禅師は真言律宗から禅宗に、寺号を總持寺(そうじじ)、山号は諸嶽観音堂にちなんで諸嶽山(しょがくさん)と改めた。瑩山(けいざん)禅師は後醍醐天皇の意にかない、翌年に「曹洞出世の道場」という綸旨をうけ勅願大寺とした。()

香積台
香積台
紫雲臺
紫雲臺

その後、1615年に徳川家康より永平寺と同格の本山に列せられ、加賀藩主前田家から寺領をうけ、大いに発展した。
1898年(明治31年)に七堂伽藍を焼失し、1911年(明治44年)に能登から現在の横浜市鶴見へ移る。なお、旧地は總持寺祖院(そいん)として再建される。()

待鳳館
待鳳館
向唐門
向唐門

永平寺において宣揚された道元の教えは、弟子の懐奘(えじょう)から義介(ぎかい)へと伝えられ、さらに瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)にいたって教団として形作られた。道元は「承陽(じょうよう)大師」の諡号(しごう)をもつ。釈尊を源流にもつ禅は、達磨を通じて中国に伝えられ、道元禅師がその法を受け継いだが、道元禅師はみずからが伝えた教えこそが釈尊の説いた仏教だとして宗派を立てなかった。
道元没後、永平寺では山内紛争があり第五世住持として宝慶寺(ほうきょうじ)(福井県大野市)から義雲(ぎうん)を迎え、以降その門流が住持となり、道元の古風を保ち維持してきた。一方、紛争で永平寺を下りた義介(ぎかい)は、大乘寺(だいじょうじ)(石川県金沢市)へ移り、積極的な民間布教を開始し、それを受け継いだのが瑩山(けいざん)禅師であった。()

三門
三門
百間廊下
百間廊下

瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は「常済(じょうさい)大師」の諡号(しごう)をもち、教団としての曹洞宗の礎を築き、その教えを拡大させていった。そのため道元禅師は教義面において、瑩山(けいざん)禅師は教団面において、今日の曹洞宗を日本に定着させた。したがってこの二人を両祖として仰いでいる。
ちなみに曹洞宗の名前の由来は、「曹」は中国禅の第六祖「曹渓山大鑑慧能(そうけいざんだいかんえのう)」の頭文字と、「洞」は「洞山良价(とうざんりょうかい)」の頭文字から取って命名された。()

大祖堂
大祖堂
大祖堂
大祖堂

(上)大祖堂(だいそどう) 開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿。
太祖瑩山(けいざん)禅師と高祖道元禅師、二祖峨山(がさん)禅師をはじめとして、歴代の諸禅師の頂相を安置し、あわせて諸尊牌を奉祀している。
1965年(昭和40年)3月、二祖峨山(がさん)禅師の600回大遠忌を記念して竣工・落慶した。()




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