英彦山は、日の御子(天忍穂耳命)のいる神山とされ「日子の山」と呼ばれていた。819年に詔によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで1729年に院宣により「英」の1字を賜り「英彦山」と改称され現在に至る。
531年に北魏の善正が英彦山内の洞窟に籠り修行して仏教を広めたという。その後、修験宗開祖の役小角もここで修行したとされ、819年以降、法蓮が堂宇、伽藍、社殿などを造営し、霊仙寺と名付けた。 1696年、京都聖護院との本末争いのすえ、英彦山は幕府により別本山の地位を認められた。江戸中期になると坊舎八百、山伏ら僧衆三千を数えるほど繁栄をきわめたという。 明治の神仏分離により英彦山は神社(今の英彦山神宮)として神祇官の直轄支配を受け、仏教色は徹底的に排除された。
その後、1955年(昭和30年)霊泉寺として復興され、1989年(平成元年)には本堂や庫裡が完成した。
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