住所/〒830-0025 福岡県久留米市瀬下町265-1TEL/0942−32−3207 アクセス★電車/JR鹿児島本線「久留米」駅下車 徒歩約10分 ★車/九州自動車道「鳥栖」IC、または「久留米」ICから約20分 長崎自動車道「東脊振」ICから約30分 駐車場/約40台(無料)拝観料/無料 境内自由
御祭神は、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇(あんとくてんのう)、建礼門院(けんれいもんいん)(高倉平中宮(たいらのちゅうぐう))、二位尼(にいのあま)。 筑後川のほとり鷺野ヶ原(さぎのがはら)に1190年創建、その後は兵禍を避け幾度も社殿を遷し、1650年に久留米藩第2代藩主有馬忠頼(ただより)より現在の社地社殿の寄進をうけ、この地に遷し奉られる。そして久留米藩第9代藩主有馬頼徳(よりのり)が、1818年に江戸三田の藩邸に御分霊を勧請、1871年(明治4年)に現在の中央区日本橋に遷座したのが、現在の東京水天宮である。この他に全国やハワイ等各地に鎮座する水天宮はすべて当宮を本宮とする御分霊社である。()
安徳天皇の母である高倉平中宮(たいらのちゅうぐう)に使えていた女官按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は1185年、3月24日壇ノ浦の戦いの後、千歳川(現筑後川)のあたり鷺野ヶ原(さぎのがはら)にのがれ、1190年に水天宮を祀った。伊勢は後に剃髪して名を千代と改め、里人に請われるままに加持祈祷などを行っていたところ、霊験あらたかであったため、尊崇するものが日増しに多くなり、尼御前と称えられ、当初、水天宮は尼御前神社と呼ばれていた。()
千代は、中納言平知盛(とももり)の孫、平右忠(すけただ)を養い後嗣とし、現在に至るまで子孫が代々宮司職をつとめている。千代が亡くなった後は里人がその墓を営み松を植えて千代松明神と崇め奉った。また幕末の激しい動乱期に勤王派の旗頭として、王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者眞木和泉守(いずみのかみ)保臣(やすおみ)(第22代宮司)を祀る眞木神社が境内にある。()
御祭神の安徳天皇は、壇ノ浦の戦いで二位尼(にいのあま)に抱かれて入水、わずか8歳で亡くなったとなっているが、当宮では女官按察使局(あぜちのつぼね)伊勢に守られ、生きて筑後に潜幸していたと伝えられる。筑後の豪族藤原種継は平家の旧臣で潜幸中の天皇に仕え、またその娘である玉江と結ばれていたという。そして神子禅師尊栄という皇子を産み、天皇は27歳で崩御、玉江姫は禅寿尼と号し先帝の霊位を丁重に弔って生涯を終えたという。その恋物語の由縁から椿の花が当宮の御神紋となっている。()