難波別院の参拝記念印
参拝記念印 参拝記念印

大阪の神社・仏閣
難波別院
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住所/〒541-0056 大阪市中央区久太郎町4-1-11
TEL/06−6251−5820
アクセス
★電車/地下鉄御堂筋線または中央線「本町」駅より徒歩約3分
★車/阪神高速環状線「信濃橋」出口より約5分
駐車場/約5台(無料)
拝観料/無料
参拝時間/6:00〜16:00
開門時間/6:00〜21:00頃

御堂会館
御堂会館

浄土真宗「真宗大谷派」。
創建は1595年に本願寺第12代・教如上人が大坂渡辺の地に「大谷本願寺」を建立したことに始まる。
そして1598年に、豊臣秀吉による大阪城拡張により、大谷本願寺は現在の地へと移転した。また1602年には、関ヶ原の合戦に勝った徳川家康によって京都・烏丸七條の地が寄進され、教如上人は大坂から京都へと寺基を移した。
教如上人は東本願寺(真宗大谷派の本山・真宗本廟)の建立と共に、大阪の大谷本願寺の地を「難波御堂(難波別院)」とし、大阪における念仏の中心的な道場とした。()

本堂
本堂

寺号札

本願寺第8代・蓮如上人は、大阪(大坂)という地名の名付け親として知られているが、これは1496年に、現在の大阪城の地に「大坂坊舎」を建立したことに由来する。
その後、京都にあった山科本願寺が破却されたことから、大坂坊舎は1533年に本寺と定められ、大坂本願寺(石山本願寺)となる。
しかし1570年、教如上人の父・本願寺第11代顕如上人の時、天下統一を目論む織田信長と本願寺・全国の真宗門徒との間で、いわゆる「石山合戦」が起こった。石山合戦は約10年間にも及んだが、朝廷も仲介し講和に至った。和睦後、顕如上人は紀州鷺森(和歌山)に退去したが、教如上人が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如上人と教如上人の2派に分かれてしまった。結局、教如上人も石山を出ることで内紛には決着がつき、2派の間も朝廷の仲介により一旦は和解した。()

獅子吼園
獅子吼園

本能寺で信長が明智光秀に打たれ、1583年に豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大坂城を築城した。この頃、大阪天満の地にあった本願寺は、秀吉から京都・堀川の地を寄進され、現在の西本願寺ができた。
しかし、1592年に顕如上人が逝去して、長男の教如上人が本願寺第12代を継ぐが、教如上人は1年足らずで秀吉より隠居を命じられる。この理由は、石山合戦の講和のときの内紛の核となった教如上人を顕如上人は廃嫡し三男の准如を嫡子と定めたことにより、如春(顕如の妻、教如・准如らの母)らが顕如上人の遺志にもとづき秀吉に働きかけたためである。
教如上人は隠居にはなったが、積極的にお念仏の教えを各地に広め、1595年に大坂(大阪)に戻り、渡辺の地に堂宇を建立、これが難波別院の前身である「大谷本願寺」であった。
御堂筋の名は津村別院(北御堂・本願寺派)と難波別院(南御堂・真宗大谷派)が沿道にあることに由来する。()