郭巨山(かっきょやま)  【舁山(かきやま)
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四条通西洞院東入ル郭巨山町

巡行
巡行
巡行
巡行

貧困のあまり、母と子を養うことができず、思い余って我が子を山へ埋め捨てようとしたところ、黄金の釜を掘り当て、母親孝行をしたという中国の史話「二十四孝」の一人である郭巨の故事を題材にした山。「釜掘り山」ともいわれる。()

宵山
宵山
会所
会所

後漢の人、郭巨は貧困のため老母と三歳になる男子を養えなくなり、悩んだ郭巨は「子を育てようとすれば老親への孝の妨げとなり、老母を養おうとしても老母はその少ない食物を孫に与えるのでこれも老親への孝の妨げとなる。よって、子を棄て、母を養おう。子は再び得られるが母は再び得られない。」と決心し、子を棄てる穴を掘ろうとしたら、地中から「天が孝子郭巨に与える。官が奪ってはいけない。人も取ってはいけない。」の一札とともに黄金一釜が出て、老母に孝養を尽くせたという説話で、郭巨山では黄金一釜を素直に「金の釜」で表現し山洞に乗せている。()

会所飾り
会所飾り
会所飾り
会所飾り

山に飾る御神体(人形)の郭巨と童子は1790年(寛政2年)金勝亭九右衛門の作。前懸(まえかけ)は1785年製の唐美人遊楽図の絽刺(ろざし)胴懸(どうかけ)は石田幽汀(ゆうてい)(1721〜1786年)の下絵による呉道子描龍図と陳平飼虎図の刺繍で1785年の松屋源兵衛の作。旧後懸(うしろかけ)として1785年改修の黒ビロード地福禄寿図刺繍がある。見送(みおくり)は1816年製で円山応震(おうしん)(1790〜1838年)の下絵による山水仙人図。
1983年(昭和58年)から新しく上村松篁(しょうこう)原画による秋草図前懸、花の汀図および春雪図胴懸、都の春図見送の綴織(つづれおり)を順次新調、後懸は阿国歌舞伎図綴織を新調した。千宗室(鵬雲斎(ほううんさい))寄贈の漢詩文の見送がある。
この山に限って、桐桜菊の欄縁(らんぶち)の下に金地彩色宝相華文様(きんじさいしきほっそうげもんよう)乳隠(ちかく)しが用いられ、また屋根覆いをかけている。()

『きゅうきゅうにょりつりょう』という言葉には、目に見えない怪しいものから身を守る厄除けの効果があるとされている。何かに対して命令するという意味のほか、邪悪なものに対して「早々に退散しろ」という意味があるため、呪文の中では非常に効果がある言葉として使われている。()