金戒光明寺の御朱印
洛陽三十三所 御朱印

洛陽三十三所
法然上人二十五霊場 御朱印

法然上人二十五霊場
中山文殊 御朱印

中山文殊
阿弥陀如来 御朱印

阿弥陀如来
洛陽四十八願所
善光寺四十八願所

京都の神社・仏閣
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
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住所/〒606-8331 京都市左京区黒谷町121
TEL/075−771−2204
アクセス
★電車/JR「京都」駅、阪急京都線「河原町」・「烏丸」駅
      または京阪「三条」・「祇園四条」駅から
        市バス「岡崎道」下車 徒歩約10分
        または「東天王町」下車 徒歩約15分
     地下鉄東西線「蹴上」駅下車 徒歩約30分
★車/名神「京都東」ICより約15分、または「京都南」ICより約35分
駐車場/約30台(400円/60分)
拝観料/600円(御影堂・大方丈・庭園) 境内無料
拝観時間/9:00〜16:00

高麗門
高麗門
山門
山門

紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷(くろだに)の名で親しまれている。寺伝によれば、1175年法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが始まりと伝えられている。以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳(ごこうごん)天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。また1428年後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。()

納骨堂
納骨堂
方丈前庭
方丈前庭

御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(くまがいれんせいぼう)直実(なおざね))と平敦盛の供養二基が建てられている。寺宝としては、山越(やまごえ)阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒(ふじむらようけん)、箏曲開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)などの墓がある。()

会津藩殉職者墓所碑
会津藩殉職者墓所碑
方丈
方丈
洛陽観音霊場碑
洛陽観音霊場碑

幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保(かたもり)が本陣を置き、2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場した。()

御影堂(大殿)
御影堂(大殿)
阿弥陀堂
阿弥陀堂

(左上)御影堂(大殿) 内陣正面には宗祖法然上人七十五歳の御影(坐像)を奉安している。1944年(昭和19年)に再建されたもので、法然上人二十五霊場第24番、京都二十五処第7番霊場になっている。
また脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。これは千二百余年前、遣唐使吉備真備の難を救った観音様である。()
(右上)阿弥陀堂 1605年豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。本尊阿弥陀如来は、恵心僧都最終の作「ノミおさめ如来」と称されている。洛陽四十八願所第二十五番、善光寺四十八願所にもなっている。()

山門扁額
山門扁額
山門
山門
円光大師霊場碑
円光大師霊場碑

(上下)山門 応仁の乱で焼失後、1860年に再建。
2011年(平成23年)6月から2013年(平成25年)10月のあいだ、約4万枚の瓦を葺き替えるなど修復していた。
山門2階には、釈迦三尊像や十六羅漢像、天井画「蟠龍(ばんりゅう)図」がある。
楼上正面には後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。()

修復中の山門
修復中の山門
修復中の山門
修復中の山門

方丈北庭
方丈北庭
紫雲の庭
紫雲の庭

(上下)紫雲の庭 法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもので、白川砂と杉苔を敷き詰めた中に、法然上人や上人を取り巻く人々を大小の石で表し、法然上人の「幼少時代・美作国」、「修行時代・比叡山延暦寺」、「浄土宗開宗・金戒光明寺の興隆」の三つの部分に分けて構成されている。()

紫雲の庭
紫雲の庭
紫雲の庭
紫雲の庭

三重塔扁額
三重塔扁額
三重塔
三重塔
西雲院山門横の銀杏
西雲院山門横の銀杏

(上)三重塔 国重要文化財。1633年に伊丹重好(豊永宗如堅斉)が以前に仕えていた徳川二代将軍秀忠の菩提を弔うために建立した。塔の内部には文殊菩薩が祀られていたが、2008年(平成20年)4月に御影堂左脇壇に遷座、現在は分身が祀られている。
御影堂に遷座された文殊菩薩は運慶作と伝えられ、善財童子(ぜんざいどうじ)優填王(うでんのう)最勝老人(さいしょうろうじん)仏陀波利三蔵(ぶつだはりさんぞう)を従えた渡海文殊形式で日本三文殊随一として信仰を集めている。()

西雲院山門
西雲院山門
会津藩殉難者墓地
会津藩殉難者墓地

(上)会津墓地 1862年閏8月会津藩主・松平容保(かたもり)は徳川12代将軍家茂から京都守護職に任ぜられ、同12月24日家臣一千名を率いて本陣金戒光明寺に入陣した。金戒光明寺は自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地であった。また大きな寺域により一千名の軍隊も駐屯することができた。
当時の京都は尊王攘夷運動の嵐が吹き荒れていたが、1863年8月18日には尊皇派の公卿を追放し、翌年には配下の新撰組による「池田屋騒動」、「禁門の変」の勝利などで治安が回復したが、会津藩の犠牲も大きく、戦死者も続出した。そこで金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。その数は鳥羽伏見の戦いの115霊も合祀され352霊を数える。
金戒光明寺の塔頭西雲院(通称紫雲石(しうんせき))が管理している。()




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