古い昔の牛ヶ瀬が柳の庄と呼ばれた頃、平安遷都の少し前、今の称讃寺本堂の東側から湧き出ていた柳の清水を延鎮僧都が桓武天皇に奉ったところ、病がたちまち癒えたという。792年、延鎮は清水に光り輝いて現われた観音像を倒れてきた柳木に刻み、牛ヶ瀬に青柳山観音寺を開山した。この柳木は、かつて行叡居士の言によって、延鎮が刻んだ清水寺の観音と同木であったといい、観音寺開山が行叡居士の遺志であったという。
832年に観音寺の諸堂が建立。奥の坊に安置されていた阿弥陀像は時の住職忍戒の作。 室町時代1427年応永の兵火で、時の住職弘道は観音像を南の田中の草堂に安置した。1471年に弘道は以前の場所に観音寺の小堂を再建した。1467年の応仁の乱では阿弥陀像が土中に埋もれ、閑誉和尚により称讃寺再建、安置されたと伝わる。 観音寺は明治の廃仏毀釈で称讃寺と合併した。
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