住所/〒605-0977 京都市東山区泉涌寺山内町28TEL/075−561−3443 アクセス ★電車/JR奈良線・京阪電車「東福寺」駅から徒歩約10分 あるいは京都市バス「泉涌寺道」バス停から徒歩約7分 ★車/名神「京都南」ICより約15分 あるいは「京都東」ICより約20分 または阪神高速京都線「鴨川西」出入口より約10分 駐車場/なし ※泉涌寺駐車場にて約30台(無料) 拝観料/無料 拝観時間/9:00〜17:00
真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派。山号は光明山。泉涌寺(せんにゅうじ)塔頭のひとつ。泉山七福神の福禄寿奉祀。992年、恵心僧都(えしんそうづ)源信(げんしん)により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院が起源。 寛治(かんじ)年間(1087〜1094年)に橘俊綱(たちばなのとしつな)(藤原頼通(よりみち)の子)が山荘を造営するにあたり、光明院を持仏堂として傍らに移設し、後に山荘を寺院と改めてからは伏見寺または即成就院と呼ばれていた。()
宇治川を挟んで向かい側には父・藤原頼通(よりみち)の宇治殿改め平等院があった。光明院を建立した時、お堂の上に平等院の鳳凰と向き合う形で鳳凰が鎮座された。即成院(そくじょういん)として現在の場所に移っても、鳳凰は今日でも平等院の鳳凰と向き合う形で鎮座している。 1594年、豊臣秀吉の伏見築城のため深草大亀谷に移転した。その後、明治維新の廃仏毀釈で無住となったが、泉涌寺(せんにゅうじ)塔頭で本寺の法安寺と合併し、1902年(明治35年)現在地で再興され即成院(そくじょういん)となる。()
境内には平安時代の武将であり、弓の名手であった那須与一(なすのよいち)の墓と伝えられる石造宝塔がある。寺伝によれば、源平の戦いで源義経の家来であった那須与一(なすのよいち)は、出陣する途中、病に罹(かか)ったが当院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦いで戦功をたてた。その後、即成院(そくじょういん)の阿弥陀如来の仏徳を感じ、京都に凱旋して戻るとすぐに出家し、残りの後半の人生を源平の戦いで亡くなった方々の菩提を弔うということで当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられている。()