六道珍皇寺の御朱印
本尊薬師如来 御朱印

本尊薬師如来
本尊薬師如来 御朱印

本尊薬師如来
本尊薬師如来 御朱印

「六道まいり」
本尊薬師如来
閻魔大王 御朱印

「六道まいり」
閻魔大王
小野篁卿 御朱印

「六道まいり」
小野篁卿
日光菩薩 御朱印

「六道まいり」
日光菩薩

(月光菩薩と1年おき)

京都の神社・仏閣
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
【六道珍皇寺のサイトへ】

住所/〒605-0811 京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595
TEL/075−561−4129
アクセス
★電車/京阪「清水五条」駅より徒歩で約20分
    JR「京都」駅から市バスで「清水道」バス停下車 徒歩約5分
★車/名神「京都南」IC、「京都東」ICから約15分
駐車場/無料(約3台分)
境内の散策は自由
拝観時間/9:00〜16:00

石碑
石碑
山門
山門
石碑
石碑

建仁寺の塔頭で「六道さん」と呼ばれる。山号は大椿山(だいちんざん)
創建については明らかでないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して盛えていたが、その後衰退し、室町前期の正平年間(1346〜70)に建仁寺の僧良聡(りょうそう)によって再興され、臨済宗に改められた。
薬師堂に本尊の木造薬師如来座像(重要文化財)を安置し、閻魔堂に小野篁(おののたかむら)の作と伝わる閻魔大王像と等身大の小野篁(おののたかむら)像が祀られている。()

提灯
提灯
本堂
本堂
提灯
提灯

「六道まいり」本堂
「六道まいり」本堂
「六道まいり」本堂
「六道まいり」本堂

(左下)小野篁(おののたかむら)冥土通いの井戸 この付近は、かって死者を鳥辺野(とりべの)(東山区南部の阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野に至る丘陵地)へ葬送する際の野辺送りの場所で、「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。六道とは、仏教で、全ての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界のことで、本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁(おののたかむら)が冥土へ通った入り口であったという伝説が残されている。もとは小野篁が亡き母御の霊に会うためにこの鳥辺野にあるこの寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初といわれている。帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺(ふくしょうじ)の井戸であるとする説もある。しかし、今はその遺址もなく、井戸の伝承はかっての福生寺(ふくしょうじ)の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清凉寺西隣の薬師寺に引き継がれている。()

小野篁 冥土通いの井戸
小野篁 冥土通いの井戸
六道の辻 水子地蔵尊
六道の辻 水子地蔵尊

閻魔・篁堂
閻魔・篁堂
「六道まいり」閻魔・篁堂
「六道まいり」閻魔・篁堂

(上)閻魔・篁堂 堂宇には、右手に(しゃく)を持った等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)と善童子や獄卒鬼王さらにはその傍らには、閻魔大王座像(小野篁作)を安置するとともに弘法大師(空海)座像等も合祀する。
小野篁(802〜852)は、参議小野岑守(みねもり)の子で、嵯峨天皇に仕えた平安初期の政治家であり文人・歌人としても知られる。文武両道の人物であったが、不羇(ふき)な性格で、「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという奇怪な伝説は「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」等数多く見られる。また838年、30代半ばで遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)と争い、「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となったこともある。しかし840年には帰京、復位を許され、学殖を高くかわれて従三位に就いた。流刑地の隠岐へ流されるときに詠んだ歌は小倉百人一首にも採られ知る人も多い。
 『わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船』()

「六道まいり」松原通の横断幕
「六道まいり」松原通の横断幕

六道まいり 毎年8月7日から10日までの4日間は「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を撞く参拝者でにぎわう。()

群霊塔
群霊塔
参詣順路案内板
参詣順路案内板
「六道まいり」山門
「六道まいり」山門
「六道まいり」境内
「六道まいり」境内

「六道まいり」本堂
「六道まいり」本堂
お迎え鐘
お迎え鐘

(右上と下)お迎え鐘 毎年盂蘭盆(うらぼん)にあたり精霊(しょうりょう)をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は、十万億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることより「お迎え鐘」と呼ばれている。()

「六道まいり」お迎え鐘を撞く行列
「六道まいり」お迎え鐘を撞く行列
「六道まいり」お迎え鐘を撞く行列
「六道まいり」お迎え鐘を撞く行列

「古事談」によれば、この鐘は、開基の慶俊僧都(けいしゅんそうず)が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くときにその鐘を三年間、この鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅だった。ところが、留守をあずかる寺僧は待ちきれずに一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところはるか唐国にいる僧都のところまで聞こえたといい、僧都は「あの鐘は三年間地中に埋めておけばその後は人手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」といって大変残念がったという。しかし、そんなはるか彼方の唐国にまでも響く鐘ならおそらくは冥土までも届くだろうと信じられ、このような「お迎え鐘」になったと伝えられている。かかる話は「今昔物語」巻三十一にも同巧異曲の物語で出ている。()

「六道まいり」お迎え鐘
「六道まいり」お迎え鐘
「六道まいり」お迎え鐘
「六道まいり」お迎え鐘

円山公園のしだれ桜 円山公園のしだれ桜




HOME TOP BACK LINK