1588年に堯珍法師の開山。堯珍はもと島原温泉山七百坊座主であったが、天正年中(1573〜92年)耶蘇教徒(キリシタン教徒)の襲撃で温泉山(雲仙)の神社仏閣は残らず焼失し、堯珍は逃れ、船越村本坊に住した。その後、龍造寺家晴・直孝両代の庇護を迎ぎ、船越村平等院平仙寺に安住した。一方、寺伝には比叡山延暦寺の直末にして、龍造寺家晴を開基とし、末寺には慈眼院と触内四坊(福緊坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈祷寺として隆盛したが、明治維新の神仏分離令により諫早家の庇護も絶え、末寺の一寺四坊はみな廃絶となり、寺領はことごとく上地された。 その後、1967年(昭和42年)旧諫早家の建物を買取り、本堂と庫裡に改築、また新築し現在に至る。
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