乙訓寺のご朱印
ご朱印

洛西観音霊場 ご朱印

洛西観音霊場

京都の神社・仏閣
乙訓寺(おとくにでら)
【乙訓寺のサイトへ】

住所/〒617-0814 京都府長岡京市今里3丁目14-7
TEL/075−951−5759
アクセス
★電車/阪急京都線「長岡天神」駅、あるいはJR東海道線「長岡京」駅より
       阪急バス「薬師堂」下車 徒歩5分
     または阪急京都線「長岡天神」駅より徒歩約20分
★車/名神「京都南」ICから約20分、「大山崎」ICから約15分
    京都縦貫自動車道「長岡京」ICより約10分
駐車場/約50台(500円)
入山料/500円
入山時間/8:00〜17:00

表門
表門
十三重塔と鐘楼
十三重塔と鐘楼

真言宗豊山派。山号は大慈山(だいじざん)京都洛西観音霊場第6番札所。
7世紀頃に推古天皇勅願、聖徳太子創建と伝えられている。()

本堂
本堂
早良親王供養塔と鐘楼
早良親王供養塔と鐘楼

784年に桓武天皇が長岡に遷都した際、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築した。この当時の境域は、南北百間以上もあり、建てられた講堂は九間に四間の大増築で難波京の大安殿と同じ規模のものであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々に暗殺されるや、天皇は早良(さわら)親王を当寺に幽閉した。
なぜなら早良(さわら)親王は桓武天皇の実弟で皇太子であったが、暗殺団と見られた一味と交流があったからである。親王は身の潔白を示すため断食して訴えたが、10余日後、流罪処分となり淡路島に護送途中、淀川べりで絶命、遺骸はそのまま送られ、淡路島に葬られた。その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、また悪疫の流行、天変地異が発生した。朝廷は事件15年後に早良(さわら)親王を復権、崇道(すどう)天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。()

日限地蔵尊
日限地蔵尊
鎮守八幡社
鎮守八幡社

弘法大師像と本堂
弘法大師像と本堂
牡丹
牡丹

また嵯峨天皇は811年11月9日太政官符をもって弘法大師を乙訓寺の別当にした。大師は、八幡明神の霊告をうけて合体の像を造り、また毘沙門天像を刻んで国家の豊楽を祈り、あるいは境内に実る柑子(かんす)を朝廷に献上し、伝教大師と法論をかわしている。
その後、永禄年間(1558〜1569年)信長の兵火により一時衰微したが、1693年五代将軍綱吉は、堂宇を再建して乙訓寺法度をつくり、寺領を寄せ徳川家の祈願寺とした。()

牡丹
牡丹

牡丹
牡丹
牡丹
牡丹

4月中旬から5月初旬にかけて牡丹が花ひらき、これに前後してつつじなども咲き花の寺となる。この牡丹は1940年(昭和15年)頃、長谷寺より献木されたもの。
牡丹が咲き誇る以前の乙訓寺は、表門から本堂まで続く松の並木が美しいことで有名であった。それらが、1934年(昭和9年)の室戸台風でほとんど倒木し、応仁の乱も生き延びたというモチの木、菩提樹も多大な損害を受けることになった。被害が著しい境内を見た長谷寺第68世能化海雲全教和上が本尊への供花、荘厳花として、また同時に参拝者にしばしの安らぎを念じ、多年育てた牡丹のうち二株を寄進したのが始まりである。
その後、歴代住職らの尽力により株数も増え、今では約二千株の花が美しく境内を彩っている。()

牡丹
牡丹
牡丹
牡丹