御祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では伊邪那岐命とされているが、江戸時代の地誌類では、かっては本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向かって左は大川大明神、右は八大龍王(海神)を祀っていたという。 当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したとされる。江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに智恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。
一方、南北朝期の「慕帰絵詞」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」や「丹後国天橋立之図」には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられる。 いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に属する神社であった。 現在の社殿は1907年(明治45年)の再建になる。
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