水族館の歴史

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 この日本に水族館はどのくらいの数があるのでしょうか?海辺の観光地にはどんな容にせよたいてい水族館があり、いまや都会の真ん中の高層ビルの中にも立派な水族館があります。このページを作る際に読んだ書物のひとつに、鈴木克美農学博士が書かれた「水族館−ものと人間の文化史」にはこのように記されています。

海遊館 エプソン品川アクアスタジアム

 『かっての水族館は、子どもの行くところだった。子どもを連れて、あるいは子どもに引っ張られて行くところだった。日本人にとっての水族館は、生まれてから死ぬまでに、三度行くところだともいわれた。子どものときに一度、結婚して生まれた子どもを連れてまた一度、そして、年老いてから孫を連れてもう一度と。
 その後の日本では、高度成長の波に乗って、水族館ブームが何度も押し寄せてきた。ブームの波の寄せるたびに水族館の数はふえ、大きく、豪華になった。むかし、子どものものだった水族館は、おとなの行くところにも変わった。おとなが時間を過ごすのに抵抗を感じない、むしろ、それにふさわしい場所になり、未婚の若い男女のデートスポットとまでいわれるようになった。日本人が一生に三度行った水族館は、したがって、もう一度、合計四度行く……ところになった。』

 その後には、「それではもったいない」などのようなことが書かれていますが、私もそう思います。私なんかはこれまで何度水族館に訪れたことでしょう。思い起こすに、小学生のときは遠足で行ったり、嫁さんと結婚する前もデートのときは、雨が降っても、寒い冬でも、また暑い夏でも、天候に左右される必要がないところとしてよく行った記憶があります。子どもができたら、また同じ理由で幾度となく行って、いまでは飽きられています。(それでこのHPを作るようになったのでしょう?)

 

水族館の誕生

ポンペイ

 今から2000年も昔、ローマ帝国にはすでにアクアリウムがあったと言われています。西暦79年、ヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれたポンペイの町には、石の水槽あるいは池の跡が発掘され、それは魚を飼うためもので、アクアリオと呼ばれ、それがアクアリウムの語源になっているそうです。これが水族館の始まり?というにはちょっと。そう言うなら、紀元前2500年のバビロニア文明期にシュメール人が淡水魚を飼ったのが人類最古の記録と言われ、中国でも紀元前1120年、周の頃に、すでに家魚と言う言葉があってコイが飼育されていたようです。しかし、人が観賞として魚を飼うようになったのはずーっつと後で、中国で金魚の記録が現れたのも西暦470年ごろ、そして、その中国やヨーロッパで、ようやく16〜17世紀の頃から池から入れ物で見て楽しむようになってきたと言われています。

 水族館をどのように定義すればよいか?それにもよりますが、とりあえずここでは、池などで魚を飼ったところまでさかのぼるのでなく、ガラス窓越しに魚を見て楽しむあたりを始まりとして考えてみます。
 そのように考えると世界最初の水族館は、1853年、ロンドン・リージェント・パークの動物園内に造られたものと言われています。他にも1830年にフランス・ボルドーにできたものが最初と言われる説もありますが、それは魚や貝類を水生植物を入れたガラスの小さい箱に飼育できることを見つけて、淡水魚の水槽を数点並べたものらしいです。このサイトの「熱帯魚を飼ってみよう」の冒頭にアクアリウムの意味を記しましたが、水族館までにはまだ到達していなかったのだと思います。

版 画「小さな水族館」

 水族館のつくられた経緯はいろいろありますが、おもにこの四つの流れがあります。
@ホームアクアリウムとして、川の魚や海辺の生き物を健康的に飼育しようとした博物学者たち。これは水槽設備の開発につながった。
A19世紀はじめに、博物学の流れから動物学ができ、それを基礎とした「動物園」がつくられた。そこに付属の水族館ができた。
B産業革命以降、ヨーロッパでは博覧会が頻繁に開かれ、その目玉に珍しい水槽展示で水生生物が公開、その話題性から、つぎつぎと新しい水族館が建てられた。
C19世紀中ごろ、大学やそのほかの教育機関、研究所が、水産学、生物学、海洋学の研究のために実験所を設立した。これら実験所では川の魚や海辺の生き物を飼育していたため、水族館の併設から一般公開し、その観覧料を研究費にあてた。
 現在は、水族館の運営形態も設立の経緯もいろいろありますが、基本的にこれら四つの流れが入り混じっています。

 

日本最初の水族館

 明治15年9月20日、上野に日本最初の水族館が完成し一般公開されました。半年前にオープンした日本最初の動物園、その一角に「観魚室(うをのぞき)」としてスタートしました。欧米より30年遅れていました。

 その建物は、内側の一方が壁で、もう一方がガラスをはめ込んだ壁水槽の観覧窓になり、水槽内には外からの自然光が差し込んで明るく、室内は無照明で、観客は暗い室内から、明るい水槽の魚をのぞきながら一方向に通っていくようになっていたらしい。水槽の数は15くらいで、ひんやりと涼しい風の通り過ぎる薄暗いホールの一方の壁に、ほの明るい水槽が浮かぶように並んだ、素朴な昔の水族館の情景が想像されます。
 この水族館では、キンギョ、フナ、コイなどのほか、イモリやテナガエビなどの淡水生物が中心で、その後は海水生物の飼育も試みていたようです。明治18年の飼育動物一覧表には、アカガエル、オイカワ、モロコバエ、イモリ、イシガメ、クサガメ、スッポンなどのほかに、ボラやヤドカリなどもリストに載っていた模様です。

 明治32年10月には、日本で最初の営利目的の企業水族館ができました。東京浅草に、日本で4番目としてオープンした浅草水族館です。
 ノーベル賞を受けた川端康成の作品にはこの浅草水族館を舞台にしたものがたくさんあります。昭和初期に発表された『浅草紅団』をはじめ、『水族館の踊り子』『浅草の姉妹』『浅草の九官鳥』『浅草祭』など。すべての作品にこの浅草水族館が描かれているかどうかわかりませんが、その当時の情景が思い浮かぶようです。

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日本の水族館の父・飯島 魁

 日本の水族館の歴史で、最も功績のあった一人に飯島魁博士があげられるでしょう。彼は静岡県浜松市で士族の子として生まれ、明治14年に東京大学を卒業し、同時に助教授に任命され、翌年2月から3年間ドイツのライプチッヒ大学に留学しました。ドイツでは人体寄生虫の研究を行い、若き日の森鴎外と同じ下宿にいました。森鴎外の『独逸日記』で垣間見ることができます。

 博士は明治18年にドイツより帰国し、翌19年には教授に昇進しました。帰国当時は人体寄生虫の研究を続けていましたが、明治20年ごろから鳥類、27年ごろからガラス海綿と、研究の幅を広げていき、明治37年には東京大学付属三崎臨海実験所の第2代所長になりました。大正10年に亡くなるまで、日本動物学史上さまざまな業績が残り、また水族館の発展にも多大な功績を挙げられています。

 博士が亡くなられた翌年の『動物学雑誌』には「実に先生は『我邦における水族館の父』というべきである」とたたえられています。

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日本の水族館に金魚!!

 「え〜、水族館に金魚」、日本ではそんな感覚でしょう。日本人にとってキンギョはあまりにも身近な動物すぎるからでしょう。

 そもそもキンギョは、中国南部で晋の時代以前にはすでに存在していたようです。キンギョはフナと同一種で、フナの変種とされています。現在のフナと同じ先祖からキンギョが作り出され、普通のフナ色のものから、赤いものが突然変異で生まれ、それが開き尾(三つ尾)となったのが、日本で言うワキン(和金)です。ワキンはキンギョの原形に近く、日本に最初に来た金魚もワキンでした。

 キンギョが中国から初めて日本に来たのは室町時代です。こうみると日本の観賞魚の歴史も結構古いものです。そもそもこれらの観賞は、水面上から眺め、色、斑紋、形などなど、背から見下ろして観賞する魚でした。キンギョの写真もよく上から撮ったものがあります。キンギョ鉢に入れて、横から観賞するようになったのは、かなり後のことです。ところが、ヨーロッパで流行した熱帯魚の観賞は、ほとんどが、背からは地味だが、水槽のガラス越しから見ると美しく見える魚たちばかりです。

 キンギョは長い年月をかけて産み出された芸術に対して、熱帯魚は現地で採取されたままの野性の姿です。上から見ては何も気がつかないのに、はじめて水槽に入れて横から見ると宝石のように美しい魚に変わるのに気がついたとき人はさぞ驚いたことでしょう。こんなことが始まりでしょうか、水族館は。

 

 

 

* 参考文献
・鈴木克美 『水族館への招待〜魚と人と海』 (丸善ライブラリー)
・鈴木克美 『水族館〜ものと人間の文化史』 (法政大学出版局)
・堀由紀子 『水族館のはなし』 (岩波新書)

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