品川寺の御朱印
江戸三十三観音霊場 御朱印

江戸三十三観音霊場

東京の神社・仏閣
品川寺(ほんせんじ)
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住所/〒140-0004 東京都品川区南品川3-5-17
TEL/03−3474−3495
アクセス
★電車/京浜急行「青物横丁」駅下車 徒歩約5分
★車/首都高湾岸線「大井」ランプより約6分、「大井南」ランプより約11分
   首都高羽田線「勝島」ランプより約5分
駐車場/境内可(無料)
拝観料/無料 境内自由

山門
山門
東海七福神案内
東海七福神案内

正しくは海照山(かいしょうざん)普門院(ふもんいん)品川寺(ほんせんじ)といい、通称「しながわでら」と呼ばれる。真言宗醍醐派別格本山。江戸三十三観音霊場第31番札所、東海三十三観音霊場第21番札所、江戸六地蔵第1番、東海七福神(毘沙門天)。
大同年間(806〜810年)、弘法大師空海が東国巡錫(じゅんしゃく)の際、当地に錫を留めたことに始まる。この地の領主・品河(しながわ)氏に水月(すいげつ)観音を授け、以来品河左京亮(さきょうのすけ)まで代々六百年間その家に伝わる。1395年足利・上杉の合戦により品河一族は滅び、それ以後は本尊水月観音が草堂に安置され観音堂と呼ばれ、町の人々の信仰を集めてきた。
その後、太田道灌が品川の地を治めると、この水月観音を崇拝し、あわせて自分の持仏である聖観音をともに安置した。そして1457年に道灌が江戸城を築くとこの地に伽藍を建立し、「観音堂」を「金華山普門院大円寺」と号した。
1566年甲州の武田信玄が小田原の北条氏政を攻めたときに北条氏の支配下であった品川一帯は焼き払われ、伽藍も焼失し本尊水月観音は甲府に持ち出された。しかし持ち帰った武士が発狂し、それを聞いた信玄は聖山伏に尊像を品川に持ち帰らせ、草堂を造り安置させた。()

本堂
本堂
弁天堂
弁天堂

江戸時代の1652年に、山形の僧弘尊上人が、四代将軍家綱公により寺領4800坪を拝領し、太田一族の外護のもと、一大伽藍を建立し、寺号を「金華山普門院品川寺(ほんせんじ)」と改めた。後に山号は「海照山」となる。
その後、江戸末期から明治維新の頃は寺域は全く荒廃し、大梵鐘も海外に搬出され、草堂一宇に本尊を安置し、江戸六地蔵と共にわずかに法灯を伝えるのみであったが、1916年(大正5年)順海和上(じゅんかいわじょう)が入山、行方不明の大梵鐘を捜すなか、品川寺の復興計画もめぐらされ、1919年(大正8年)大梵鐘はスイス国ジュネーブ市アリアナ美術館にあることを確認、1623年には観音堂が完成、1930年(昭和5年)5月5日に大梵鐘がジュネーブより贈還され、これを期に鐘楼、会堂、客殿、拝殿、山門、会館と建立される。その後、1990年(平成2年)には同型の大梵鐘を鋳造し、アリアナ美術館に贈呈、あわせて「品川区ジュネーブ市友好都市」締結を提唱し、これが実現する。()

江戸六地蔵一番
江戸六地蔵一番
鐘楼と大梵鐘
鐘楼と大梵鐘

(左上)江戸六地蔵一番(東京都指定重宝) 1708年、江戸深川の僧・地蔵坊正元(しょうげん)の発願により、座高2.75mの青銅の地蔵菩薩座像が、江戸・神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され寄進される。この地蔵菩薩座像は、江戸に出入りする六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置され、「江戸六地蔵」と称され、品川寺には、その第一番東海道の尊像として奉安されている。
(右上)大梵鐘 1657年9月18日弘尊上人の発願により、徳川三代の将軍、家康・秀忠・家光の供養のために、大梵鐘が京都三条の鋳物師・大西五郎左衛門により鋳造され、四代将軍・徳川家綱によって寄進された。この大梵鐘は、徳川三代の将軍の号、東照宮、台徳院殿、大猷院殿(だいゆういんでん)と、京都七条の大仏師・康斎(こうさい)による六体の観音像が浮き彫りにされ、さらに観音経一巻が陰刻されており、「武蔵風土記」、「江戸名所図絵」には『世にもまれなる梵鐘』と記されている銘鐘である。()



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