寺社巡り覚書
信貴山城(しぎさんじょう) もとは河内と大和の国を結ぶ要衝として667年天智天皇の御代に築城され、その後幾度か戦火により築城が繰り返された。中世には大塔宮護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置とし、楠木正成も一時この城に拠ったという。当時は高安城であった。
その後、河内の木沢長正が信貴山城を築城したが、太平寺の戦いで敗れ落城した。そして松永久秀が大改修し、近畿一円に君臨すること十数年におよんだが、織田信長の軍に攻められ、1577年落城し、松永久秀、久通父子共に自害して滅亡、これ以降に城は使われずに廃城となった。()

御城印
御城印