梵天渡御は本来、宇治神社御旅所→縣神社(神移し)→宇治神社へ渡御→縣神社(還幸祭)のルートで行われていたが、2003年に還幸祭(最後の行程)が行われなかったことで御輿の担ぎ手である県祭奉賛会と縣神社の関係がこじれ、2004年から縣神社が独自に梵天渡御を行うという分裂状態となった。 2014年は関係修復のために奉賛会が自粛する形で神社のみ梵天渡御を行ったが、その後も関係改善が成されず、2015年から再び分裂開催となっている。 これには以前よりあった宇治神社と縣神社の対立が関係しているという。関西学院大学の調査によると、両神社の対立は1965年に顕在化し、1968年には裁判にまで発展、その後和解と対立が繰り返されていた。対立は、両神社間の縣神社の立ち位置の違い、祭神観の違いの相違が原因といわれる。
縣神社の立ち位置ついて「平等院との関係が切れた後は宇治神社との関係もなくなり完全に独立した神社になった」と縣神社は考えるに対し宇治神社は、「縣神社はもともと宇治神社の末社であり宇治神社の一部として存在している神社である」と考えている。また両者の祭神観の違いは、「木花開耶命を祭神とした独立した神社である」と考える縣神社に対し、宇治神社側は、「縣神社は宇治神社の祭神菟道稚郎子命の母神にあたる宮主矢河枝比売命を祀る末社である」とする。この認識の違いに加え、祭の主導権争いや金銭的な問題もあったと見られている。
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