吉祥院天満宮の御朱印
吉祥院天満宮 御朱印

吉祥院天満宮
吉祥天女社 御朱印

吉祥天女社

京都の神社・仏閣
吉祥院天満宮
【吉祥院天満宮の紹介サイトへ】

住所/〒601-8331 京都市南区吉祥院政所町3
TEL/075−691−5303
アクセス
★電車/JR「京都」駅から市バスで「吉祥院天満宮前」下車 徒歩約3分
      あるいは「千本十条」から西600m、「西大路九条」から南600m
     JR「西大路」駅から南へ1km
★車/名神「京都南」ICから約15分
駐車場/境内に可(無料)
拝観料/無料  境内自由

東側鳥居
東側鳥居
東南側鳥居
東南側鳥居

御祭神は菅原道真公(すがはらのみちざねこう)。934年朱雀天皇の勅命により誕生の地に創建された最初の天満宮といわれる。菅公聖蹟(かんこうせいせき)二十五拝第4番。
この地は桓武天皇が平安京遷都の折、道真公の曾祖父古人卿(ふるひときょう)、祖父清公卿(きよきみきょう)がお供して都に入り、帝より領地として賜ったところ。845年6月25日に是善卿(これよしきょう)の子として道真公(幼命阿呼・吉祥丸)が生まれ、幼少の頃から才智高く、862年に18才で文章生に合格されるまではこの吉祥院に住んだ。その後、御所仕えのこともあり父是善卿のすすめで大内裏近く宣風坊(五条西洞院付近)に移り、勉学に励み、清公卿、是善卿につづき33才の若さで文章博士になった。そして宇多天皇の特別の信任もあり学者としては初めて右大臣までなったが、その異例ともいえる栄達に有力者たちの不満が高まった。そして左大臣藤原時平の醍醐天皇への讒言により太宰権帥(ごんのそち)(副長官)として901年1月25日に左遷されてからは、望郷の詩を幾篇となく綴り、京のことを想いつつ、903年2月25日ついに冤罪を晴らすことなく、59才で、病苦のうちに生涯を閉じた。()

南側鳥居
南側鳥居
拝殿
拝殿

天満宮として祀られてからは各地各層からの浄財の寄進は多額にのぼり社殿は雄壮になった。鳥羽天皇は1109年菅公200年御忌の祭典を特別盛大に行なわせた。
その後、戦国時代や江戸時代は勅祭は廃止や規模が縮小されたが、1902年(明治35年)の菅公千年祭以来は氏子崇敬者の篤い支援を得て逐次復興に努め、1928年(昭和3年)吉祥天女社の大修理、1953年(昭和28年)本殿改築などが行われた。()

菅公胞衣塚
菅公胞衣塚
菅公胞衣塚
菅公胞衣塚

(上)菅公胞衣(えな) 道真公降誕された時の胞衣(えな)(へその緒)を埋めたところ。初宮詣りには天満宮本殿参拝の後ここに参り、赤ちゃんの鼻をつまんで泣かせ発声の初めとし、すこやかな成長と将来の成功を祈るならわしとなっている。()

硯之水
硯之水
(左から)白太夫社、松梅社、吉野社、琴比羅社、秋葉山
(左から)白太夫社、松梅社、吉野社、琴比羅社、秋葉山

(左上)(すずり)之水 菅公御幼少の頃、勉学・手習いに用いられたと伝える井戸で久しく涸れていた。近年篤志家の奉納により新たに境内に井戸を掘り、硯型の碑を建てた。()

吉祥天女社
吉祥天女社
吉祥天女社
吉祥天女社

(上)吉祥院(吉祥天女社) 御祭神は、吉祥天女、菅原清公卿、菅原是善卿、伝教大師、孔子。
804年道真公の祖父清公卿が遣唐使として唐へ向かう途中、にわかに暴風が起こり船が転覆しかけた時、同船していた僧最澄と共に吉祥天女に平安を祈ったところ、天女がたちまち空中に現れ風雨静まって無事使節の任を果たした。帰国後、吉祥天女の尊像を自ら刻み、808年庭上に一堂を建立して安置し、伝教大師にはかって開眼供養が行われた。そしてここを吉祥院と号して国家鎮護の祈願所・菅家守護の本尊とした。
応仁の乱のときは吉祥天尊像の焼失を恐れて土中に埋め難を逃れた。その後も建物は幾度となく焼失し、そのたびに浄財を集め再建が行われた。現在の吉祥天女社は1850年に再建されたもの。したがって創建の歴史は天満宮より120年余りも古く、2008年には創建1200年祭が行われた。()



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