文殊院のご朱印
四国別格二十霊場 ご朱印

四国別格二十霊場 ご朱印
四国別格二十霊場 御影

四国別格二十霊場
御 影
四国霊場 開創1200年記念 御影

開創1200年記念
御 影
四国別格二十霊場 散華

四国別格二十霊場
散華

愛媛の神社・仏閣
文殊院(もんじゅいん)
【文殊院のサイトへ】

住所/〒791-1134 松山市恵原町308
TEL/089−963−1960
アクセス
★電車/JR予讃線「松山」駅より
      伊予鉄バス「恵原公民館前」バス停下車 徒歩約3分
★車/松山自動車道「松山」IC、「川内」ICより車で約15分
駐車場/数台(無料)
拝観料/無料 境内自由
納経所/7:00〜17:00

本堂・毘沙門堂・大師堂
本堂・毘沙門堂・大師堂

真言宗醍醐派。山号は大法山。
本尊は地蔵菩薩、文殊菩薩、弘法大師。
四国八十八ヶ所番外札所、四国別格二十霊場第9番札所、伊予巡錫二十一霊場第15番札所、伊予七福神(毘沙門天)。
お遍路さんの元祖衛門三郎の屋敷跡に建つ寺院。
寺伝によれば、当初、徳盛寺と呼ばれていたが、平安時代初期の824年に弘法大師が文殊菩薩に導かれてこの地に逗留し、文殊院と改めたと言われている。()


本堂
本堂

伊予の国荘原の強欲な庄屋であった衛門三郎は、托鉢に現れた旅の僧を弘法大師とは知らず、追い返そうと大師の手にした鉄鉢を竹箒で叩き落とした。鉄鉢は八つに割れ、翌日から八日の間に三郎の八人の子供が次々に亡くなってしまう。
前非を悔いた衛門三郎は、大師との再会を願って、白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って四国巡拝に旅立つ。この姿がお遍路さんの姿の始まりといわれている。()

本堂扁額
本堂扁額
衛門三郎由来の図
衛門三郎由来の図

8年の歳月が過ぎ、三郎は二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても詫びたい気持ちから今度は逆に回ることにした。しかしその途中、阿波国(現・徳島県)12番札所焼山寺の麓で病に倒れる。その時、突然弘法大師が枕元に現れ、言い残すことはないかと尋ねられた三郎は、「来世は国司の家に生まれたい」という。死ぬまぎわに衛門三郎の罪を許した大師は、1寸8分の石に「衛門三郎再来」と書いて、三郎の左手に握らせた。すると三郎は安心して息を引き取った。その後、大師が文殊院で因縁切りの修法を行った。()

修行大師と衛門三郎夫婦像
修行大師と衛門三郎夫婦像
大師導く文殊菩薩
大師導く文殊菩薩

翌年、道後湯築6代城主河野息利(こうのおきとし)の妻が男児を出産したが、その子は生後3年たっても左の手がひらかなかった。悩んだ末に両親は安養寺の住職に加持を頼んだ。そこで、安養寺の住職が祈祷したら手をひらき、開いた手から小石がころげ落ちた。
その小石には「衛門三郎再来」という文字があった。この子こそ衛門三郎の生まれかわりだったのである。その子は息方(やすかた)と名づけられ15歳で家督(7代)を継承、その後成長し領主として善政をしいたといわれている。その石は安養寺に納められ、寺号は石手寺と改められた。
なお、衛門三郎終焉の地に番外霊場の杖杉庵(じょうしんあん)が建つ。大師が衛門三郎をこの地に葬り、墓標として衛門三郎が遍路に使用した杉の杖を立てたのである。これがやがて根を張り杉の大木となったという。
後年、衛門三郎旧宅へ文殊院を移し、河野家の菩提所とした。()